「おーい、あおいちゃーん。用意出来たかな」
ドアをノックし、直希が声をかける。
しかし何度ノックしても、中から反応がない。「まさかとは思うけど、また気絶してたりしないよな……あおいちゃん、あおいちゃん。ごめん、入るよ」
そう言ってドアを開けると、あおいは畳の上で寝息を立てていた。
「……寝てる……んだよな、これ」
ゆっくり近づき、あおいの顔を覗きこむ。
「ははっ、無防備と言うか何と言うか……中々の大物っぷりだな。おーい、あおいちゃーん。朝ですよー」
「……う~ん……まーだー、もうちょっとだけー」
その返しがおかしくて、直希が微笑んだ。
「あおいお嬢様―っ、早く起きないと遅刻しますよー」
「うーん、もうちょっとー」
「……え?」
力強く抱きしめられ、そのまま一気に押し倒された。
「ちょ……ちょっとあおいちゃん、あおいちゃん?」
「う~ん……まだ眠いですー」
そう言って顔を近付けると、直希の頬にキスをした。
「え? え? あおいちゃん、流石にこれはまずいから。起きて、起きてって」
「うふふふっ……もっとキスしちゃうですー」
あおいの小さな唇が、頬に何度も押し当てられる。その感触に、直希は赤面し手をばたつかせた。
「あおいちゃん、起きてって」
「え……」
その声に、あおいがようやく目覚める。
目の前に直希の顔がある。 そして。胸に。 直希の手があった。「いやあああああああっ!」
叫ぶと同時に、直希の頬を思いきり張る。そして直希から遠ざかると、顔を真っ赤にして胸を隠した。
「な、な、な……誰ですか!」
「落ち着いて、落ち着いてってあおいちゃん。俺、俺だから」
「俺俺ってあなた、私の胸……あ、直希さん?」
「起きた?」
「な……なんだ、びっくりしたです、あははははっ」
「はははっ……」
「あっ! そうですごめんなさいです! 私、また寝ぼけて抱きつきましたですか!」
「……と言うことは、これってよくあるイベントなんだね」
「あのその……ごめんなさいです、大丈夫でしたか」
「大丈夫大丈夫。俺の方こそ、離れようとしてたとはいえ、その……触っちゃってごめんね」
「ひゃんっ!」
再び胸を隠す。
「ごめんね、あおいちゃん」
「い、いえ……大丈夫です」
「それよりあおいちゃん、お風呂沸いたよ。着替え持っておいで」
「あ、そうでした。私、お風呂の用意までしてもらってたのに、呑気に寝てましたです」
「疲れてたんだと思うよ。はいこれ、俺のジャージ。ちょっと大きいと思うけど、とりあえず今日はこれに着替えて」
「ごめんなさいです、何から何まで」
「お風呂入ってる間に、カーテンつけておくから。それと布団とテーブル、持ってきておくね」
「はいです。ありがとうございますです」
バスタオルと着替えを持って、あおいは食堂横の浴場へと向かった。
「まいった……これからは寝起き、気をつけないとな」
ひりひりと痛む頬を押さえながら、直希はそうつぶやき、笑った。
* * *
濡れた髪を拭きながら食堂に現れたあおいに、直希は思わず見惚れてしまった。
「あのその……お風呂、いただきましたです」
「あ……ああ、どうだった? お湯、熱くなかった?」
「はいです。お陰様で旅の疲れ……」
そこまで言って、あおいが倒れそうになった。慌ててあおいの体を支えると、またしても手にやわらかい感触が伝わった。
「ひゃっ!」
「あ、ご、ごめん」
「い、いえ……お世話になりっぱなしですので、これぐらい大丈夫です」
「待って待って、その妙な誤解と献身はいらないからね。今のはただのアクシデントだけど、悪いのは俺の方だし」
「いえ……直希さんでしたら私、少しぐらいなら……」
「そういう言い方は誤解を招くから、今すぐ改めようね。今のは怒っていいところだから」
そう言って手を取り、椅子に座らせる。
「これのせいだな、今つまずいたのは」
足元にしゃがみ込むと、ジャージの裾を折っていく。
「ごめんね、今はこれしかなくて。やっぱり俺のジャージじゃ大きすぎだよね」
「私、男の人の服は初めてで。ちょっと新鮮で嬉しいです」
「明日にはあおいちゃんの服、何とかするから。今夜だけこれで我慢してね」
「直希さんの匂い……直希さんに包まれてるようです」
「だからあおいちゃん、それ洗濯してるやつだから。俺の匂いなんてしないから」
「ふふっ……なんだかくすぐったいです」
そう言って、ぶかぶかの裾を頬に当てて笑う姿に、直希は釘づけになった。
「……直希さん?」
「は……はい、出来たよ。じゃあドライヤー貸してあげるから、髪乾かしておいで。そのままだと風邪ひいちゃうよ」
「ドライヤー……ですか?」
「うん。はいこれ」
そう言ってドライヤーを渡すと、あおいは首をかしげて不思議そうに眺めた。
「……まさかとは思うけどあおいちゃん、ドライヤー、使ったことがないのかな」
「そ、そんなことないですないです。大人ですから、ドライヤーぐらい簡単に使って見せます」
「分かった。ちょっと後ろ向いて」
苦笑した直希がそう言って、ドライヤーのスイッチを入れた。
「あ……そ、そんな直希さん、悪いです。私、これぐらい自分で」
「はーい、動かない動かない。どこでそんな見栄を覚えたのかな、このお嬢様は」
「ふ……ふにゅう……」
あおいの艶やかな髪に指を通しながら、直希は思っていた。
23歳女子が、ドライヤーの使い方も知らない。これは本当に、お嬢様なのかもしれないと。終点の駅に着いた直希とつぐみは、駅から出ると近くのコンビニでパンとジュースを買った。 少し歩くと、海が見えてきた。 直希たちは、かなり遠くの街にまで来た気になっていた。しかし実は、直希たちの住む街から二駅ほどの所で、今見えている海も、言ってみれば直希たちがいつも見ている海なのだった。 堤防の石段に腰掛け、一緒にパンを食べて笑い合う。「おいしいね」「私のもおいしいわよ。食べてみる?」「いいの?」「代わりにナオちゃんのも、少し頂戴ね。はい、あーん」「あーん」「どう? おいしいでしょ」「うん、甘くておいしい。じゃあお返し。あーん」「あーん」 * * * 食べ終わった二人は、陽の落ちた海岸で手をつなぎ、静かな海を見つめていた。「つぐみちゃん、これからどうするの」「そうね。まずはお家を見つけるのよ。それから二人で、どこかで働くの」「お家って、どうやって見つけるの?」「分からないけど……でも大丈夫よ。私たちは結婚するんだから、そう言えば、誰かがくれるはずよ」「そうなんだ。つぐみちゃん、やっぱりすごいね」「お仕事だって見つかるから、心配ないわよ。でも朝になってからね。今日はもう遅いから、大人もそろそろ寝る時間だし」「じゃあ、僕らはどこで寝るの?」「それは……あそこでいいんじゃないかしら」 そう言ってつぐみが指を差した場所。それは海の家だった。「でも、誰もいないよ」「あそこは夏にしか開いてないのよ。だから誰もいない。隠れるのにちょうどいいでしょ?」「隠れるって、誰から?」「お父さんたちが探しに来るかもしれないから。私たちの結婚に反対してるんだから、当然でしょ」「そう……だね、そうだよね……あっ」
しばらくして、東海林とつぐみは直希の家へと向かった。「あの……ナオちゃん……」 直希の部屋に、つぐみが恐る恐る入っていく。 部屋では直希が、先ほどのつぐみの様に膝を抱え、顔を埋めていた。 時折小さく肩が動く。どうやら家に帰ってからも、ずっと泣いていたようだった。「ナオちゃん、その……さっきはごめんね」「……」「私ね、ナオちゃんがその……悪口を言ったって思ったの。べっぴんさんってどういうことか、分からなくて……それでね」「……もういい」「え……」「もういい! つぐみちゃんなんか嫌いだ! べっぴんさんって言ったら、つぐみちゃんが喜ぶって母さんが言ってたのに……つぐみちゃんも母さんも嫌いだ!」「ナオちゃん……」「つぐみちゃんのこと、大好きだったのに……喜ぶって思ったのに……」「ごめんなさい。お願い、許して」 つぐみがそう言って、直希を抱きしめた。「ごめんなさいナオちゃん、許してください。お父さんから、べっぴんさんがその……綺麗だって教えてもらって……私、嬉しかった。そしてね、ナオちゃんにひどいことしたって思ったの」「……」「だからお願いします。ナオちゃん、許してください。私とこれからも、仲良くしてください」「……もう、怒ったりしない?」「しません。だってナオちゃん、私のことを綺麗って誉めてくれたんでしょ?」「うん……」「私のこと、かわいいって思って
「べっぴんさん?」「そう、べっぴんさん。かわいい女の子のことを、そう言うのよ」「かわいい女の子……つぐみちゃんみたいな子?」「ふふっ、そうね。つぐみちゃんはかわいいもんね」「うん。つぐみちゃんよりかわいい女の子、いないと思うよ」「あらあら、ふふっ……直希は本当、つぐみちゃんのことが大好きね」「うん、大好き。ねえ母さん、つぐみちゃんにべっぴんさんって言ったら、喜んでくれるかな」「そうね。つぐみちゃんもきっと、喜んでくれると思うよ」「じゃあ今度、つぐみちゃんに言ってあげる」「直希は本当、優しいね」 * * * 次の日。 保育園でつぐみの姿を見つけると、直希は一目散に駆け寄った。「つぐみちゃんつぐみちゃん。あのねあのね」「おはようナオちゃん。どうしたの?」「僕ね、つぐみちゃんに言いたいことがあるんだ」「私に? 何かな何かな。いいこと?」「うん。つぐみちゃんが喜ぶこと」「えー、早く言ってよナオちゃん」「うん。じゃあ言うから、ちゃんと聞いてね」「うん」 直希はつぐみの手を握り、顔をみつめた。「え……ナオちゃん、どうしたの? なんか恥ずかしいよ」「つぐみちゃん」「は……はい……」「つぐみちゃんは……べっぴんさんだね!」 満面の笑みを浮かべ、直希がそう言った。「……」 しかし、べっぴんさんと呼ばれたつぐみは、直希の予想に反し、驚いた表情で固まった。 そしてうなだれるようにうつむくと、小さな肩を震わせた。「馬鹿っ!」 言葉と同時に、直希の頬を張った。
「つ、疲れたわ……」「つぐみさん、大丈夫ですか」「ええ……菜乃花もお疲れ」「いえ、私は別に……でもその、今の山下さん……」「ええ、かなり記憶が混乱してたみたいね」「そんな……山下さんが認知症……」「明日お父さんに伝えておくわ。この前みたいに、一時のことだといいんだけど」「……」「菜乃花?」「あ、いえ……すいません。私、何も出来なくて」「何言ってるの。こんな現場に遭遇したの、初めてでしょ? 誰だって戸惑うわよ」「でもその……直希さん、あんな自然に」「そうね……直希の演技には本当、驚かされるわ」「そう、ですよね……でも直希さん、山下さんの様子にも全然驚いてなかったみたいでしたよね」「そんなことないわよ。直希も心の中じゃ、パニックになってたと思うわ」「そうなんですか?」「だと思うわよ。いつも普通に接していた入居者さんが、急にあんな風になるんだから。でも、今日は菜乃花もいてくれてよかったわ。こんなこと言ったら山下さんに悪いけど、いい経験になったと思う」「あ、はい……でもこんなこと、本当にあるんですね」「現場ではよくあることよ。でもね、菜乃花。どんな時にも言えることなんだけど、とにかく私たちは、冷静に対応しなくちゃいけないの。直希だってきっと、怖かったと思う。辛かったと思う。でもそれを見せずに、これまで培ってきた経験と、山下さんの情報を頭の中に総動員させて、ああして祐太郎さんを演じきったの」「はい……すごいと思いました」「どれだけ入居者さんの情報を持っているか。こういう時
「そう言えばあおい、今頃どうしてるかしら」「明日香さんと宴会中、なんじゃないかな」「温泉旅行、ですもんね」「しかしびっくりしたよな。明日香さん、温泉旅館のタダ券持って、この前のお詫びにどうですかって」「直希と行く気だったけどね」「つぐみはそう言うけど、それはないと思うぞ。だって俺には、ここの仕事があるんだから」「明日香さんだって、そんなことぐらい分かってるわよ。その上で誘ってきたのよ」「スーパーで、タダ券二枚もらったんだよな」「でも、直希さんに断られて」「あんな分かりやすいがっかり顔、中々見れないわよね」「それでみぞれちゃんとしずくちゃんが、あおいさんを誘って」「この前一緒に遊んでから、随分仲良くなったからね」「おかげで今日は、随分静かだったわ」「特に、その……食堂が……」「だね。一番元気に食べる子がいなかったんだから。入居者さんたちも、気のせいかちょっと寂しそうだったし」「気のせいなんかじゃないわよ。生田さんなんて、私に何回も聞いてきたんだから。あおいはいつ帰ってくるんだって」「生田さん……随分と変わりましたよね」「そうね。あおいのおかげかしら、ふふっ」 そう言って三人、顔を見合わせ笑った。 その時だった。「祐太郎さん!」 食堂に響き渡った声。 聞きなれない名前。 三人が声の方を見ると、そこには貴婦人、山下が立っていた。「え……山下さん?」「直希、祐太郎さんって言ったら、まさか」「ああ……亡くなった旦那さんだな」 直希が二人に目配せすると立ち上がり、山下に微笑んだ。「どう……したのかな、恵美子さん」「どうしたじゃありません
8月31日の夜。 直希とつぐみ、そして菜乃花が食堂に集まっていた。 明日から9月。 菜乃花の新学期に向けて、これからの仕事の割り振りを決める為のミーティングだった。「菜乃花ちゃんにとっては、高校生活最後の二学期。体育祭に文化祭と行事もあって、何より卒業後の進路を決める大切な時期だ。 あおい荘で働いてくれて、正直すごく助かってる。特にこの前、俺が倒れた時には本当、迷惑をかけてしまって」「そうね。そのことに関しては本当、菜乃花に感謝し続けて頂戴よ。勿論、私やあおいにもね」「分かってるって。あんまりいじめるなよ」「あ、でもその……直希さん、元気になられて、本当によかったです」「ありがとう。菜乃花ちゃんは優しいね」「あ、いえ……そんなこと……」「優しくなくて悪かったわね」「いやいや、その突っ込みは来ると思ってたけど、そういう意味じゃないから」「分かってるわよ、ふふっ」「菜乃花ちゃんにとってこれからの数年は、人生で一番大切な時期になる。仕事を手伝ってくれるのは本当に嬉しい。でも今はそれ以上に、これから自分がどうしていきたいのかを、しっかり考える時間を持ってほしいんだ」「はい。ありがとうございます」「菜乃花は将来の夢とか、あるのかしら」「夢……ですか」「ええ。大学に進学するのか、働こうと思ってるのか。専門学校という道もあるわね」「私は、その……頭もよくないし、無理して大学に行っても仕方ないかなって思ってます」「そうなの? 今からでも頑張ったら、まだまだ間に合うと思うけど。それに、大学は勉強だけじゃない。友達も出来ると思うし、新しい発見や出会いもあると思うわよ」「でも私、友達を作るのも苦手だし……大学に行っても、その……今より多くの人たち